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岩崎清七 慶應義塾出身名流列伝 (いゐノ部)

慶應義塾出身名流列伝 (いゐノ部)岩崎清七氏

廻米問屋

醤油醸造業

岩崎清七氏

東京市深川区佐賀町二の三三

(慶応三年生)

氏の郷里は栃木県藤岡町に在り、代々醤油醸造を業とす。下総古河町に支店を置き米穀商を営む銭や支店と云う。その名関東および東北第一を以て自ら任ず。弟亀二郎氏此が任に当たる。その製品は銚子及野田の同業者を凌駕せんとするの盛況に在り、氏の厳父及令弟は郷里藤岡に在りて之が経営に当たり、氏は深川佐賀町の支店に在りて本支店を統括し且つ廻米業に従事せり。

氏は慶応三年の生まれ小学校卒業の後郷里鴎村学舎に漢学を修め明治十三年東京に出で岡千仞の塾に入り尚ほ漢学を修め、同十五年より攻玉社にて数学を専修し、十六年九月渡米の志を懐いて慶應義塾に入学す、十七年二月福澤先生の紹介を得て渡米し、彼のドクトルシモン氏の元に寄寓して紐育州ポーキピシイ府のカッテーヂ、グローブ校に通学し、十七年五月より大学校予備の普通学を修む。十八年六月コロネル大学に入学し普通大学課及び政治経済を学ぶ。在学二年各試験に優等

 (三三)

及第の賞状を得たり。之より先氏謂へらく自分は商家の総領なり、学者となるべきものにあらず、商業家として必要なる学問を修めざる可らずと、拠って暑中休暇中年々エーストロン商業大学に通学して簿記を修め「マストル、ヲブ、アツカウント」の賞状を得、二十年六月エール大学に移り法律学を専修し「バチエラー、ヲブ、ロー」の学位を得て二十二年帰朝す。当時郷里の人々は洋行帰りの氏は必ず華々しき活動をなすべしと思推し、時恰も国会の開設せられんとするの際なりしかば、氏を国会議員又は県会議員の候補に推さんとしたり。左れど米国仕立の氏が執る所は虚栄にあらずして実利なり。氏は断然之を謝絶し、自ら進んで丁稚小僧の仲間入をなし赤毛布(げっと)をかぶり草鞋穿きにて上州信州武州の得意先を廻りて注文伺をなせり。

今の深川支店は明治二十二年父清七氏が肥後地方より多額の小麦を仕入れし際、其受渡上よりかいせつしたるものにして、その後氏が移りて此支店を管理するや、他に率先して牛荘大豆豆糟(まめかす)の直輸入を開始し、当時既に雑穀取扱業者としては深川に一位を占む。日清戦役に際しては三井物産会社と提携して多額の馬糧を陸軍に上納し正直の故を以て信用を博せり。卅一年凶作の際には率先して外国米の輸入をなして大利を占め、日露戦役の際には多額の糧米を上納せしかど其余りに多額なるを見、国家の大事に際し、之を利益一方の商人に委ぬるは危険なりとし、建議して陸軍省の直接経営となし、氏はその取扱の一切を引き受け、毫も違算なからしめたり。以て氏が国家的観念に富めるを見るべし。三十九年株式暴騰の時に際し氏の関係せる日清紡績其他の諸会社は一も失敗せるものなし。氏は最も信用を重んじ曾て約束に違いたるなく文明流の商人として重きを為せり。

(三四)

 

 

 

三田商業研究会 編『慶応義塾出身名流列伝』,実業之世界社,明42.6. 国立国会図書館デジタルコレクション  (参照 2025-11-23)

https://dl.ndl.go.jp/pid/777715/1/28