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舟運に用いられた船

レヴィストロースの翻訳で名高い文化人類学者 川田順造(昭和9年生まれ)は徳川家康が行徳の塩を江戸に運ぶために開鑿させた小名木川深川高橋の出身である。

自分史「母の声、川の匂い」で

 

幼いころの運河の思い出を語っているが、そこには、様々な船が描かれている。

以下、メモ

達磨船:艫のほうがうすべり敷きのままごとのような部屋になって生活していた

 腸樽船(達磨船の一): 肥料にするイワシを積んだ腸樽(腸樽)を運搬していた。

塩舟 塩の叺を運搬

「通運丸」: 石炭をたく両輪船

勇船: 行徳高橋間の 焼玉エンジンの渡し船

高瀬舟: 利根川下流域の早場米地帯の潮来からコメを運搬していた

 銚子方面から利根川を遡って来る船は、江戸川との分岐点、境・関宿までいって江戸川を下るものもあったが、途中木下から陸路行徳まで行き、そこからまた船で小名木川を経て隅田川へ出る近道もよくつかわれていた

番船: 浦安高橋間における通いの小型船 アサリのむき身なども運んでいた

寛永のころから、調子で集荷された肥料にする干鰯が江戸を中継して関西に送られるようになり、元禄年間から小名木川にも荷上場がつくられた。化政期から干鰯の一部は川越へも行き、川越からは炭や材木が運ばれてきた。