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新聞の題字 (県民の日に思う)

会津八一のことを調べていたら、「新潟新聞」の題字は八一が書いたものだと知った。

では「下野新聞」は、と調べたが、はっきりした資料を見いだせなかった。

 

現在、栃木市は、「栃木県発祥の地 栃木市」と銘打ってお祭りをしている。栃木県議会発祥の地、栃木市くらいにしてほしい。「内包と外延…」、というのはさておき、県道11号線栃木市役所(旧東武デパート)の前に下野新聞栃木支局があり、見せ蔵の前の立て看板に説明がある。

下野新聞発祥の地、栃木市(栃木町)なのである。

 

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下野新聞と栃木

 「下野新聞」の前身である「栃木新聞」は栃木町で産声をあげた。いわゆる第一次栃木新聞である。ここからさほど遠くない栃木町万町一丁目三一七番地の万象堂から一八七八(明治十一)年六月一日に創刊された。タブロイド判四ページ、月八回の発行で一部一銭五厘。わずか五カ月後の第三七号で廃刊になる。

 しかし、啓発的新聞の発行をめざした田中正造らは、田中自らが編集長に就き、七九(明治十二)年八月二日、栃木町旭町一丁目一五九番地の共進社から第二次栃木新聞を発刊した。

 第二次栃木新聞も経営難で経営陣を刷新したものの台所は火の車。こうした中、足利町四丁目で「足利新報」を発行していた旭香社と合併する。八二(明治十五)年九月八日、社名を旭香社と変え第三次栃木新聞が生まれた。

 八四(明治十七)年一月、県庁が栃木町から宇都宮町に移転したため、宇都宮移転を決定、「下野旭新聞」を発行していた鶏鳴社と合併し社名を旭香社とした。同年三月七日、題字を「下野新聞」として第一号が誕生した。下野新聞」は県民の支持の下、その後順調に発展、今日に至っている。

 

付記

「本建物は元肥料豪商で知られた毛塚惣八が建てた蔵屋敷を修復したものである。毛塚家は、江戸中期後半から昭和初期まで続いた県内きっての肥料・麻苧の豪商であり「栃木の毛惣」とまでいわれた。表通りの「見世蔵」は二代目惣八が一八六一(文久元)年六月に建築したもので、直径四〇センチを超える長さ九メートルの松の梁には「文久元年辛酉六月吉日 毛塚二代目惣八建立 棟梁鈴木七右衛門作 仕事使関口幸助」と記してある。

 

一九九九年三月の創刊一五周年を記念して当見世蔵を支局とした。

                                      下野新聞社

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