お楽の方の父、青木利長の墓所が栃木市大平町下高島にあります.
以下、墓所の説明文を書き起こしました.
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栃木市指定文化財青木三太郎利長の墓
青木三太郎利長は、小山氏没落後 榎本2万8千石の城主本多大隅守忠純に砲術指南役として仕えたが、ゆえあって浪人となり、その後寛永4年(1627)6月8日に32歳の若さをもって死去した。彼には妻紫<島田村(現小山市)増山織部(武右衛門との説もあり)の娘>との間に2男2女の子供があった。紫は夫の死後、4人の遺児を伴い古河藩主永井信濃守尚政の旧臣七沢作左衛門清宗のもとに再嫁し、江戸浅草に住まいして更に4人の子供をもうけている。
利長の実子のうち、寛永10年(1633)徳川3代将軍 家光の乳母・春日局の推挙により13歳で江戸城大奥に上り、やがて家光の側室となって4代将軍家綱の生母となったお楽の方(幼名・蘭。当地では高島御前としても知られている)は2女にあたる。お楽の方の出生地について「古河志」は「上高島(現町内大字高島)字むつやという耕地の内、古木の杉たてり。これすなわち御誕生の地なりという」と伝えている。なお長男弁之助はのちに三河国(愛知県)西尾2万石の大名に、2男友之助は同じく下野国(栃木県)烏山2万石の大名となり、長女綱は同じく高家品川式部大輔高朝(江戸城田安門の近くに屋敷があったという)の妻になった。これらはすべて、栄達を極めたお楽の方の存在・影響力によるものであったが、同様にして異父弟妹も立身出世を遂げている。
なお、諸説もあるが妻紫の実家である増山家からは5代将軍綱吉の側室となったお伝の方(瑞春院)の祖母も出ている。すなわち、お伝の方の祖母は紫とは姉妹の間柄であり、両者の娘であるお楽の方とお伝の方の母はい従姉妹同士ということになる。徳川3代将軍に仕え4代将軍の生母となった女性、又 5代将軍に仕えた女性の関係者が当地方にゆかりの深いことは大いに注目すべきであろう。
<墓碑銘>承応三天甲午六月日
安養院殿性参覚誉居士
施主 従五位下 増山弾正少弼 藤原正利
※承応三天
承応三年(西暦1654年)
※安養院 青木三太郎利長
※増山正利
利長の長男弁之助
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上記は2つ以上の出典から組み立てられた文章のようです。一次資料にあたっての検証は必要でしょう。